映画製作の意図(記録映画及び本編の制作)と 重要シーンの地御前(広島県厳島)

『瀬戸内海賊衆村上武吉』が信長の天下とりに待った

この映画を制作するに当たって、河野水軍から村上水軍へと 展開して行った瀬戸内海の水軍史は、ほぼ1300年の歴史が あります。従って一挙に映画化することは困難でした。村上 水軍の最大の敵、織田信長との一騎討ち『大阪石山本願寺 の決戦』(木津川口での「織田信長軍」と「毛利軍&村上水 軍」争奪戦)をメインに描いて行く事にしました。 天下取りの総仕上げと織田信長は考え、配下の明智光秀、豊 臣秀吉の忠告も聞かず自らが先頭になって闘った為、鉄砲の 弾に当たるなど、木津川口での攻防は壮絶なものでした。 最初の頃は村上水軍の強力なパワーと「焙烙玉」よって信長 軍は敗走を重ね、やがて、御座船(母船)7艘が村上水軍の「 焙烙玉」で焼け落ちてしまった。こうして浄土真宗の権力者 「顕如」は村上水軍の活躍でお米など食料品を確保し、要 塞(石山本願寺)の中に保存、数千人分の籠城作戦も軌道に 乗って、10年に及ぶ長期戦となってしまった。 信長は九鬼水軍に『鋼鉄船』の建造を命じ村上水軍の焙烙 玉の対策に着手。巨大な鉄鋼船を建造し、村上水軍を逆襲 した。「比叡山延暦寺」の皆殺しに続く、この信長の残虐性 は天皇家、将軍家 有力大名の危惧することになリ、明智 光秀は、ついに本能寺で織田信長の命を奪うことになって、 政権を豊臣秀吉並びに徳川家康へと誘うこととなってしまっ た。 豊臣秀吉、徳川家康は海賊禁止令を出して、海の安全と船に よる物流の重要性を認識させて行く。瀬戸内を中心とした海 賊衆も日本の時の権力者と一緒になって、海上における運輸 産業の一翼を担って、近代的な造船と安全且つ大量輸送の技術を磨き、港の整備(港湾事業)によっ中国、韓国、台湾 初め東南アジアへと門戸解放が進み、今日のような国際的な 日本となったのでしょう。村上武吉が率いた村上水軍の末裔 たち明治維新の立役者『伊藤博文』初め世界最強であったロ シアのバルチック艦隊を、瀬戸内水軍の戦略で打ち破った東 郷元帥の銘参謀『秋山真之』など村上水軍の末裔たちの活 躍は目覚ましいものがありました。

さて、数十年ぶりに『京都の太秦』に帰って、時代劇を制作 することは最高の喜びです。かつて私は『大映京都撮影所』 で助監督をしていました。「遅過ぎた助監督」と揶揄された 世代でもあり、かつての仲間たちもほとんど鬼籍に入った か、肉体的にも無理できず病院通いをしている様です。

私が映画を学んだ大映京都撮影所は、『ベネチュア国際映画 祭』『カンヌ国際映画祭』などでグランプリを獲得した撮影 所でした。『羅生門』『地獄門』『山椒大夫』はじめ『眠狂四 郎シリーズ』『座頭市シリーズ』特撮映画『大魔神シリーズ』 を製作した今は無き「時代劇専門の撮影所」でした。日本独 特の時代劇映画を継承できるような作品創りと、映画志望の 若い世代と寝食を共にしてテクニックを伝達できる場に出来 ればと決意しています。 なお、コロナ問題で、大幅にクランクインも遅れています。 そんなこともあって、今年は「瀬戸内海賊衆の記録映画」を 制作し、ヴェネチア映画祭の「記録映画部門」に応募するこ とにしました。従って本編の制作は2022年以降になると考え ています。

渡邉道英拝