海賊大将「村上武吉と海のサムライたち」

寄稿

1. 映画製作にあたって

瀬戸内の海賊大将『村上武吉』の活躍を映画化するに当たって、半世 紀以上前から試行錯誤を繰り返し、やっと結論を得ましたので下記の通 り企画提案いたしましす。New Corona Vir問題の見通しがつくまでは、 撮影現場を動かすこともなりませんが、着々と準備を進めて参りました。 主人公の「村上武吉」は戦国時代の瀬戸内海の海賊衆を掌握し、中国 地方の覇者「毛利元就」の海上覇権(制海権)の協力者として、「瀬戸内 海航路の関所警備」を統括、現在の海上保安庁(或いは海上自衛隊の 責務も含む)の役割を果たしていました。鎌倉幕府、室町幕府、さらには 戦後期時代の長期にわたって「極めて強力な村上水軍の総大将として 大活躍した人物でした。 その昔『源頼朝』が驕れる平家を屋島、安芸の宮島、壇ノ浦の攻防の末 破り、武家社会を鎌倉の地に築きました。その時瀬戸内の海上を掌握し ていた「河野水軍」の協力なくしては成立しなかったのです。この河野水 軍臣下であったのが「村上水軍」であり、明治維新まで「来島村上」家は 活躍しました。河野•村上水軍の活躍の歴史は千三百年にも及んでいま す。中でも戦国時代を制覇し征夷大将軍の地位を築いた織田信長が比 叡山延暦寺を焼き討ち、一向宗の宗徒の全滅を図った「大阪石山本願 寺」の焼き討ち事件は特筆すべきことで「信長の天下取りと仏教指導者 蓮如との宗教戦争」でした。

海に取り囲まれている我が国日本では、海賊の出現は海上交通の歴史 と同時に始まりました。瀬戸内海は約6時間間隔で潮流が東へ西へと変 わり、海峡で激変する急流と岩礁に喘ぎながらゆっくり航行する。そん な難所も海賊には箱庭同然で、地の利に長じた海賊の強さは推測に難 くない。「続日本記」に「近来、伊予国宮崎村に海賊群居し、略奪するこ と尤も切りなり、公私宮崎村を拠点にした海賊が暴れ、宮崎村•今治市北 端の大崎鼻、来島を結ぶ線上が伊予海賊の発祥の地とも言える記述が ある。宮崎村とは愛媛県今治市波方町宮崎でありl、海賊の宮崎城や「お 頭の家跡」「御崎砦趾」狼煙場跡などの遺跡がある。数多く居た海賊衆 を取り纏め制海権を掌中にしたのが、河野水軍であって中央政府から認 められ、来島瀬戸、宮窪瀬戸、鼻栗瀬戸に関所を設け、警備に当たった いました。

河野氏は、伊予国(愛媛県)の有力な豪族で、越智氏の流れを汲むとさ れ、第22代当主「河野通清」は「湯築城」を築き居城としてきました。河 野氏は河野郷(旧北条市河野地区付近)を出自とする。当初は国衛の役 人として活動していたと考えれているが、源平合戦で源氏に味方したこ とで鎌倉幕府の御家人となり、西国武将でありながら大きな力を有し た。その後室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。河野宗家は、代 々湯築城を拠点としたが、河野水軍の本拠地は松山市津、港山の一帯 であった。河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転す るまでは善応寺の双子山城を本丸として、支城に恵良山城、鹿島城、大 山寺城、高縄山城があった。

2. 河野水軍・村上水軍の歴史

平安•鎌倉時代 平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下に あったが、その後、源平合戦においては河野道信が河内源氏の流れを汲 む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承 久の乱の時、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退し たが、元寇のときに勇将•河野道有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の 最盛期を築き上げた。

南北朝時代•室町時代 南北朝時代には、四国へ進出し伊予に侵攻 した細川氏と争う。河野道盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にした が、河野道朝は細川頼之の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の河野道堯は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を 伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の庚暦の政変で失脚すると 道堯は南朝から幕府に帰服し、斯波義政から伊予守護職に任じられ頼 之追討令を受けて細川方と戦うが、頼之の奇襲に遭い戦死した。その後 頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河 野氏は細川氏と和睦する。

戦国時代•安土桃山時代 戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息 したものの有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こ り、その国内支配を強固なものにする事は出来なかった。結果的に、来 島村上氏や平岡氏、野島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力 に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援 に支えられることになった。 この頃の河野一族は、戦乱が絶えず、一族揃って無事に正月を迎えるこ とが難しかったため、旧暦12月の巳の日に先祖の墓前で一家寄り添っ て餅を食す「みんま」と言う慣しができた。これは現在も愛媛県中予地 方を中心に各家々で受け継がれている。

河野氏遺臣の再興のための戦い 慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦 いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉ー村上武吉の長子) と、四国に残留した平岡勢が共同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の 居城正木城に軍勢2000余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはま り、上陸地点である三津で散陣していたところに夜襲を受け、火を掛けら れ混乱し激戦の末に少数の加藤勢に撃破された(三津浜夜襲)。

河野氏の名称の由来 越智玉興(伊予橘氏の祖)と越智玉澄の兄弟 が699年(文武3年)に都落ちする際、瀬戸内海の備中沖で飲料水が無く なり、玉興が弓を海中に差し込み潮を搔き分けた所、真水が湧いてきて 渇きを癒すことができた。これが水島の地名の由来となり、この故事に 鑑みこの水の源は、越智氏の領地である伊予国高縄山から流れてきた ものであるとし、「この水の可なること、予が里よりす」と玉興が言った ことから「水」「可」「予」「里」の4字を組み合わせて「河野」とし、居舘 の地域を「河野郷」と称し、養子となった玉澄が『河野』を名字とした。

渡邉道英拝