城と桜に武士道 ー 渡邊 道英

三大小噺ではない。日本の風景に馴染んだ表現であると思 う。帝国海軍の根拠地「呉市」で生を受け、父母の郷里今治市 に4歳で帰り、小中高校を過ごした。この今治市は「伊予国」の 中心で平安時代国分寺が置かれた所です。現在タオルの町、 造船の町さらには焼き鳥の町として有名です。聖武天皇が全 国各地に国分寺並びに国分尼寺を造営しましたが、今治市の 隣町に桜井という地名があり、国分寺がありました。現在国分 寺跡として当時の礎石が残されています。つまり当時大和朝廷 (奈良)から派遣された越智『小千命(オチ)の守』伊予の国 (愛媛県)の県知事?として派遣され定着。大山祇神社の宮司 となりその子孫が「河野家」を起こし村上水軍として名を為し たようです。

なお松山市に「道後温泉」と言って、日本で最初の名高い温泉 があり、大和から度々天皇が湯治に来られていたとのこと。百 人一首に『熱田津に船乗りせむとーーー』この「道後」とは国 分寺の後方に在ったので名付けられたとのこと。つまり国分 寺が建設された桜井から東方(東大寺のある奈良)を「道前」 と呼称後方を「道後」としたモノらしい。

 

現在の愛媛県の県庁所在はご存知の松山市、正岡子規が詠ん だ俳句に「春や花十五万石の城下かな」があって、如何にもの んびりとした京言葉の影響があり「はんなりとした」話し言葉 がいまだに残るお国柄です。

「お頼もうします」「そうじゃなもし」「そうじゃがね」といった 話し言葉は文豪『夏目漱石』が小説「坊ちゃん」でふんだんに 使用しています。日本で最初に生まれたと言われる温泉場『道 後温泉』。

 

万葉集に詠まれている額田王の歌

「熱田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

 

古代の奈良、京都、大津あたりは結構夏は暑く、冬は寒く、冷 たい所で、天皇はたびたび道後温泉に来ていたようです。

 

さて、私が子供の頃(1950∼1960)は家族で出かけたりするこ とも殆ど無かったように思います。但し、桜の花が咲く三月下 旬から4月上旬には必ず家族全員で巻き寿司とか、お赤飯、果 物を一杯持参しての「お花見」の宴でした。ことに親戚が多か った松山にはよく出かけ、松山城の桜の群生した場所にゴザ を敷いて大人はお酒を、子供達は母親が前の日から用意した 巻き寿司などを食べながら兄弟、従兄弟たちと駆けずり回っ ていました。午後になると道後動物園から「道後温泉旧館」に 入って、夏目漱石と同じ湯佂に入って帰るのが常でした。 軍国主義時代、予科連で「桜に錨」の歌とともに、軍人さんた ちが桜の木下で写真撮ったりしいた様子が古いアルバムに見 られましたが、特別軍国主義の申し子ではなく一番良い季節 であったとゆうこともあったのではーーーー。

 

ここロンドンでも佐野前会 長が努力され、沢山の桜 の木が植えられました。我 が家から近い「Richmond Park」はじめ「KEW」や「ハ ンプトンコート」での花見の 宴が待ち通しい限りです。